2009年10月22日木曜日

正倉院と正倉院展にまつわる物語〜その1



「あかい奈良」編集長が案内する「まほろば奈良散歩」第2回目の講座

〜東大寺知足院にて『正倉院の宝物をめぐるココロの物語』〜

先日10/16に参加した講座の内容を少しご紹介します。

東大寺大仏殿から、正倉院そばの知足院へ場所を移して
正倉院と正倉院展について、興味深いお話を色々うかがいました。

あかい奈良」の倉橋編集長のお話はとてもわかりやすく
また知足院住職守屋長老のお話もユーモア溢れて含蓄に富み、楽しい時間を過ごすことができました。
お二人から伺ったお話の中から、ちょっと面白そうなこぼれ話的な話をいくつか拾ってみますね。
(※グレー字の文章は今回の講座で話された内容ではなく、私が加筆したものです。)

◇まず「正倉院」の建物について。

正倉院の「正倉(しょうそう)」というのは普通名詞で
元々は東大寺の正倉(正税しょうぜい を納めておく倉)だった。

創建年代は不明ですが、記録によると759年以前には存在したらしい。
(唐招提寺にも正倉があり、こちらはそれより古いことが確認されている。)

正倉院といえば校倉(あぜくら)造り。
この校倉造りという構造が1250年以上の長きに渡って、ここに納められた宝物を
守ってきたと伝えられています。

小学校で習った記憶では、使用されている檜材が湿度によって膨張したり収縮したりして
庫内を一定の湿度に保ってきたことがよかったと学習しましたが
実は木材がそれほど伸びたり縮んだりすることはなく(そう言われればそうですよね^^)

・校倉造りの構造自体、通気性がいいということ。
・地上2.2mの高床式であるということ。
・さらに、中の宝物が足付きの杉の唐櫃に納められていたということ。
これらの要因が重なり、永い年月に渡って納められた宝物が守られてきたわけです。

・また、「勅封(ちょくふう)」といって、天皇の許可がないと開けられなかったのも
 保存にとってよかったということ。

「勅封」になったのは、北倉は当初から、中倉は平安時代から、南倉は明治8年からなっています。

現在はこの正倉院の中に宝物は納められていず、
空調管理の行き届いた東宝庫(昭和28年から)と西宝庫(昭和37年から)に保存されています。
そして西宝庫が勅封倉になっています。

◇正倉院の曝涼(ばくりょう)について。

曝涼とは、簡単に言えば、宝物等の陰干しのことで、
明治16年以降、毎年1回、気候の安定している今の季節に行われることが制度化されました。
そしてこの機会を利用して、一部の宝物を奈良国立博物館に展示して、一般に公開しているのです。

この曝涼のために、10月中旬のご開封と、11月中旬のご閉封の時には
勅使として侍従 が派遣され、開封の儀、閉封の儀が執り行われます。

守屋長老は東大寺の長老として何度かこの儀式に立ち会われたそうで
天皇の名前が書かれた紙が勅封紙として奉書紙の中に入れられて宝庫の錠に封印されるというのが
(要するに紙で巻かれた状態が錠をかけた状態ということ。)
閉封の儀であり、翌年の開封の儀の時には
宝庫の錠につけられたこの勅封紙を点検し無事を確かめて、奉書紙を切って開けるそうです。

このように勅封であったからこそ守られていた宝物の数々。
ただ、中にはユニークな方もいらっしゃったそうで
ちょっと琵琶が必要だから正倉院の宝物の中から借りようとか、そういう天皇もいらっしゃって
嵯峨天皇の時代、借りた琵琶より立派にしてお返しされたという話も聞きしました。

また守屋長老が若い頃に祖母から聞いた話として
大正時代には正倉院の塀がなく、知足院の石段を下りて行くと
そのまま真っ直ぐ正倉院の校倉の所を通り抜けて町へ出て行ったということ。
その時に校倉の高床の下には浮浪者がいて、冬には焚き火をしていたこともあったそうで
この話には参加者全員がびっくり。今なら考えられないことですが
正倉院向かって左の床下には焦げたような痕があるそうですよ。(本当かなぁ・・・。)

と、このように、守屋長老のめったに聞けないお話も交えて
知足院で参加者の皆さん達と膝つきあわせて和気藹々と講義が進みます。

この後は、正倉院に伝わる宝物と正倉院展についてのお話になるのですが
長くなりますので、こちらは明日に続くことにします。

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ちょっとだけ余談ですが。
今の曝涼の期間中しか、宝庫から宝物を出すことができませんので
宝物の修理や研究などは、今の時期に集中して行われます。

正倉院に近い立地ということもあるのでしょう。
毎年この時期に研究者の方が奈良倶楽部にもご宿泊下さいます。

毎年、決まったテーマがあるのかどうかはわかりませんが
今年は「動物の毛」についての研究者の方。
正倉院に伝わる筆に使われている毛が、どういう動物のものかを調べたりするそうです。
楽器や染色の研究者の方がいらっしゃった年もありました。

と、それだけの話なのですが
1250年の時間の流れの中で脈々と、人の手によって、意識的に守られ
次世代に伝えていくという、その中のひとつの出来事の
まだその廻りで少〜しだけ関われているということが自分の中でちょっとだけ嬉しかったりするのでした。

トップの画像は今日の大仏池の様子です。
随分と秋色めいてきましたね。