2009年6月12日金曜日

額安寺~その2:ご縁があって奉納されたもの

額安寺(かくあんじ)に興味を持つきっかけとなったのが、織田弘喜画伯奉納の絵画でだったのですが。
まず、こちらの絵画「天の川」をご覧下さい。


水の神さまと言われる弁天さまが、天の川で月の竪琴を奏でる様子が描かれたこの絵は
画伯が2002年に大和郡山市を訪れた際に得たインスピレーションに基づいて描かれたものだそうです。

奉納当時94歳のご高齢にも係わらず、本堂に安置してから、絵とその場のバランスを見て
大作に手を加えられたのだとか。その時ばかりは背筋がピーンと伸びてすごいオーラが発せられていたそう。
(でもしばらくは本堂中に油絵の具のにおいが充満していたそうで・・・!)

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額安寺には、もう一つ、ご縁があって寄贈されたものがあります。
それは、お釈迦さまの遺骨である「仏舎利」。世界的な宗教画家だった故・杉本哲郎画伯のご遺族より
2年ほど前に奉納されたもので、この仏舎利は、インドのネール首相から杉本画伯に贈られたものです。

たまたま、この日(6/11)の毎日新聞朝刊の河内家菊水丸さんのコラム(奈良版)に
額安寺の仏舎利のことが書かれていましたので、お尋ねしましたら
とりあえずは金庫(?)に大事に保管されているのですが
いつかこの仏舎利を安置する舎利塔を建てたく、これからプロジェクトを展開していきたいと。

コラム「菊水丸の墓標慕情」の記事によりますと
来月7/11(土)7/12(日)に額安寺で開催される盆踊り大会に
仏舎利を詠み込んだ河内音頭が披露されます。
(ぼ、盆踊り・・・ですね。行ってみたい。マジ。← 独り言です)

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お寺でいただいた「参拝の栞」より、額安寺の由来と歴史などを書き記しておきます。

・この地は、621年に聖徳太子建立の学問道場「熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)」があったところ。
・聖徳太子が病を患っておられたところ、叔母君の推古天皇が「希望するものは何か?」と尋ねられ
 太子は「熊凝の精舎を朝廷に献じ、大寺となし永く後世に伝えるよう」と志を述べられ
 天皇はそれを快諾されたのが額安寺の起こりです。
・寺号のいわれは、推古天皇の額にあった傷が、熊凝精舎へ祈願されて平癒したところから
 額安(ひたいやすらか)なる寺「額安寺」の寺号を賜ったと伝えられています。
・この辺りは古代、水路による交通の要所で、朝鮮半島からの渡来物などが、まずは
 この額安寺でいったん陸揚げされたと考えられ、仏教伝来の窓口にふさわしい大寺院だった。
 (法隆寺か、額安寺かというくらい)
・鎌倉時代に、衰えていた寺運を復興させたのが、西大寺の僧、忍性(にんしょう)さん。
 この近くで生まれた忍性師は、額安寺周辺で施薬、施食など社会福祉に貢献した僧として有名です。
(忍性は、奈良倶楽部近くにある、北山十八間戸を建てたのでも知られていますね。)
・その後、戦国時代には豊臣秀吉の命により、塔が四天王寺に移されたりと、寺運衰退の徒を辿り
 明治の中頃には荒廃著しく廃寺のような状態にまでなっていた。
・昭和50年頃から平成18年頃にかけて、廃寺同然だった寺の解体修理を
 私財を投じて復興させたのが先代住職と前住職のお二人であります。

こうして生まれ変わった額安寺に、ふとしたきっかけで訪れたのでしたが
美麗なる仏さまといい、由緒ある寺歴といい、復興にかけた先代住職の想いといい
感激しながら、お寺の方からお話をうかがった私達。

お寺の方も仰ってましたが、このような素晴らしいお寺をより多くの方に知っていただきたいと。
何十万人もの人達が鑑賞に殺到する仏像もあれば、額安寺の仏像のように奈良時代から1300年近くも
美しい姿のまま、ひっそりと佇む仏さまもあり、訪れる人も少ないから保存状態もよかったのでしょうが。
(そういう意味では複雑ですが・・・)もし、仏像大好きな方が、このブログを読んで
額安寺の仏さまに会いたい!と思っていただけたなら嬉しく思います。




額安寺(かくあんじ)

住所:奈良県大和郡山市額田部寺町36
tel:0743-59-1128
拝観料:400円
※以前は拝観するのに事前予約が必要でしたが、今は不要になってます。
近鉄橿原線「平端」駅より徒歩15分。